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平坂製薬の歴史

平坂製薬の歴史

1.創業期・・・創業者 平坂茂市アメリカへ/ヘデクパウダー誕生/平坂製薬所の歩み/戦争による廃業
2.復興発展期・・・0からの復興/平坂米子の生涯
3.現在・・・平坂製薬株式会社の歩み

1.創業期

創業者 平坂茂市 アメリカへ

 創業者 平坂茂市は明治9年、長崎県西彼杵郡松島で産まれた。茂市の祖父の代までは香川県小豆島で裕福に暮らす資産家であったが、父の代に松島の炭鉱事業に失敗し資産の全てを失った。茂市は事業を興すべく明治35年頃、アメリカへ渡った。
 時代の先進を行くアメリカの技術習得のため独学で英語を学び、写真大学に通ったり宝石鑑定の勉強をしたりと様々なことに挑戦した。またアメリカで許嫁キミと結婚し長女米子と次女松枝を授かった。

明治後期 アメリカにて

写真中央に平坂茂市が写っている。

ヘデクパウダー誕生

 大正初めに帰国した茂市は、故郷松島で質屋や旅館を営むも苦戦が続いていた。そんなときトランクの片隅に入れて持ち帰った"ある薬"に目をつけた。この薬は当時のアメリカでは服用して5分で効くといわれ"5分間薬"と呼ばれていた。そこで茂市は日本でもこのような薬を販売してみようと思い立った。しかし茂市は薬に関しては全くの素人であったため初めのうちは苦労の連続だった。それでも茂市は諦めることなく挑戦し続け、ついに大正4年製造許可を取得してヘデクパウダー誕生させた。

平坂製薬所の歩み

 ヘデクパウダーの製造許可はおりたものの、発売当初は全く売れず、茂市は九州各地を行商して回っては着物をボロボロにして帰ってきていた。たとえ薬局においてもらっても当時では珍しい横文字英語表記の薬に人々の手は伸びず、店の隅で忘れ去られようとしていた。
 そんなヘデクパウダーにスポットライトが突然当てられた。きっかけは大正7年から大流行したスペイン風邪である。薬局では売る薬が底をつき、商品棚の片隅にあったヘデクパウダーを半信半疑で販売してみた。するとこれが抜群の効き目を発揮して瞬く間に大評判となったのだ。
 その評判は全国へと広がり業績は飛躍的に伸びていった。合名会社平坂製薬所となった大正9年以降も茂市は次々に新しい薬を考案して昭和3年には現在もヘデクパウダーと共に愛され続ける鎮咳去痰薬「コーフパウダー」を発売した。
 アメリカ帰りの茂市は次々と新しいものを取り入れて昭和6年には袋町に立派な本社ビルを建設した。地下を自社専用の印刷工場とし、当時の日本では珍しい水洗トイレやエレベーターも完備した。県の役人をはじめ多くの人が見学に来るほどであった。
 昭和8年頃からは年に4度ほど中国北東部まで出張し販売網を広げた。昭和12年にはアメリカ製の車フォードでマイクを使って全国を営業してまわったり、各地に大きな宣伝塔や看板を設けたりと画期的な宣伝スタイルを確立していった。

戦争による廃業

 ところが昭和14年、戦争の影響もあり原料入手が困難になった。50人もいた従業員は3人にまで減り、とうとう昭和155廃業の提出を余儀なくされた。それは粗悪な原料を使ってまでヘデクパウダーを販売したくないという茂市の純粋な気持ちからであった。断腸の思いで事業をたたんだ茂市は「二度とヘデクパウダーは世に出せないだろう」という言葉を残して昭和216月長崎市郊外で亡くなった。

2.復興発展期

0からの復興

 戦後、上海から引き揚げてきた茂市の長女米子は、ヘデクパウダーをもう一度世に出そうと0からの復興決意した。米子は家財一切を売り払い、親戚へ資金の調達に駆け回った。何とか掻き集めた125千円をそのまま資本金とし、昭和23平坂製薬株式会社を設立した。当初は社員わずか2名の小さな株式会社であったが、苦労を重ねて翌24年にはヘデクパウダー、25年にはコーフパウダーの製造販売許可を得た。宣伝カーによる全国行脚で知名度を上げ、その品質の良さが評価されてヘデクパウダーは見事に復活を遂げた。そして平坂製薬株式会社は昭和30年興善町(現 金屋町)に新社屋を建設するまでに成長した。

昭和25年頃

被爆した浦上天主堂が写っている。

平坂米子の生涯

 米子は本業に限らず婦人会活動や女性問題研究会、ユネスコ活動等多方面で活躍し、戦後の長崎の経済界に大きな影響を与えた。「世の中の役に立つよい製品を作ることが最大の目的であり、事業は世のためにならなければ意味がない。」という確固たる信念をもっていた。

 事業が軌道に乗り始めると宣伝活動にも力を入れた。そのひとつが「頭いたーい、歯いたーい、熱あーる」でおなじみのテレビCMである。当時のテレビ広告は紙芝居型で動きのないものが主流であったが、米子は自ら広告会社にインパクトのあるテレビCMを依頼した。

 ところが寝る間も惜しんで仕事に励んでいた米子は、昭和401突然の病に倒れ、この世を去ることとなってしまった。突如その跡を継ぐこととなった3代目晃子は米子とは20歳差の三女であった。晃子は変動の激しい時代の中で米子の作り上げた平坂製薬を懸命に守り抜いた。

3.現在

平坂製薬株式会社の歩み

 3代目の晃子もまた「事業は世の為に」という米子の信念を受け継ぎ、日本赤十字社、スペシャルオリンピックス長崎、長崎いのちの電話への支援を行うなど様々な社会活動に積極的に取り組んだ。また長崎法人会女性部会初代会長も務め、その長年にわたる堅実な経営が評価されて昭和44年には優良申告法人にも選定された。平成14年には平坂の鼻炎薬D214月にはヘデクカプセルを新発売した。

 平成26年、時津町に移転新築してからは平坂酵素、平坂 黒の力、平坂のセサミン飴と健康食品の販売にも力を入れている。

 時代の変化に対応しながらも伝統を重んじ「事業は世の為に」という信念を固く守り続けてきた平坂製薬は、様々な人々に支えられながら創業100年を越える歴史を今日も刻んでゆく。

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