1.創業期
創業者 平坂茂市 アメリカへ
ヘデクパウダー誕生
平坂製薬所の歩み
戦争による廃業
ところが昭和14年、戦争の影響もあり原料入手が困難になった。50人もいた従業員は3人にまで減り、とうとう昭和15年5月廃業届の提出を余儀なくされた。それは粗悪な原料を使ってまでヘデクパウダーを販売したくないという茂市の純粋な気持ちからであった。断腸の思いで事業をたたんだ茂市は「二度とヘデクパウダーは世に出せないだろう」という言葉を残して昭和21年6月長崎市郊外で亡くなった。
2.復興発展期
0からの復興
戦後、上海から引き揚げてきた茂市の長女米子は、ヘデクパウダーをもう一度世に出そうと0からの復興を決意した。米子は家財一切を売り払い、親戚へ資金の調達に駆け回った。何とか掻き集めた12万5千円をそのまま資本金とし、昭和23年平坂製薬株式会社を設立した。当初は社員わずか2名の小さな株式会社であったが、苦労を重ねて翌24年にはヘデクパウダー、25年にはコーフパウダーの製造販売許可を得た。宣伝カーによる全国行脚で知名度を上げ、その品質の良さが評価されてヘデクパウダーは見事に復活を遂げた。そして平坂製薬株式会社は昭和30年興善町(現 金屋町)に新社屋を建設するまでに成長した。
平坂米子の生涯
米子は本業に限らず婦人会活動や女性問題研究会、ユネスコ活動等多方面で活躍し、戦後の長崎の経済界に大きな影響を与えた。「世の中の役に立つよい製品を作ることが最大の目的であり、事業は世のためにならなければ意味がない。」という確固たる信念をもっていた。
事業が軌道に乗り始めると宣伝活動にも力を入れた。そのひとつが「頭いたーい、歯いたーい、熱あーる」でおなじみのテレビCMである。当時のテレビ広告は紙芝居型で動きのないものが主流であったが、米子は自ら広告会社にインパクトのあるテレビCMを依頼した。
ところが寝る間も惜しんで仕事に励んでいた米子は、昭和40年1月突然の病に倒れ、この世を去ることとなってしまった。突如その跡を継ぐこととなった3代目晃子は米子とは20歳差の三女であった。晃子は変動の激しい時代の中で米子の作り上げた平坂製薬を懸命に守り抜いた。
3.現在
平坂製薬株式会社の歩み
3代目の晃子もまた「事業は世の為に」という米子の信念を受け継ぎ、日本赤十字社、スペシャルオリンピックス長崎、長崎いのちの電話への支援を行うなど様々な社会活動に積極的に取り組んだ。また長崎法人会女性部会初代会長も務め、その長年にわたる堅実な経営が評価されて昭和44年には優良申告法人にも選定された。平成14年には平坂の鼻炎薬D、21年4月にはヘデクカプセルを新発売した。
平成26年、時津町に移転新築してからは平坂酵素、平坂 黒の力、平坂のセサミン飴と健康食品の販売にも力を入れている。
時代の変化に対応しながらも伝統を重んじ「事業は世の為に」という信念を固く守り続けてきた平坂製薬は、様々な人々に支えられながら創業100年を越える歴史を今日も刻んでゆく。